補中益気湯
加味帰脾湯
当帰芍薬散
当帰建中湯
清上防風湯
ガラスを引っ掻く音が嫌いなのなら堂々と言える。
しかし、あの一般的な音が嫌いだとは訴えにくい。
汚い俗語が嫌いなのなら堂々と言える。
しかし、あのキュートでポップな俗語が嫌いだと訴えにくい。
一番の問題は、ガラスを引っ掻く音と同じで、
「何故に嫌いなのか」というその理屈は無い事だ。
今朝の夢。
グレーの猫をシズと名付けて、灰トラの猫をシスと名付けたんだが、
存外にグレーの猫の方が言う事を聞かず懐かず、
僕からは距離を置きつつ、ウチの前の駐車場に、だーんと寝転がっている。
灰トラの猫の方が寄ってくるし、呼び慣れてるシズと呼び間違えてしまう。
車が入ってくるし危ないぞコッチ来い、って言ったらちゃんと来るし。
でも僕、呼び間違えてるし。
もうコレ名前を逆に付け直した方が良いのか?
とも思ったけど、それは名前哲学に反すると思ったので却下。
そうこうしてる内に、家の中に入ろうとしたらドアの前に
見知らぬ茶トラがでーんと寝ているので。
そのままドアを開けてみぎゃーになったら
嫌われて二度と来ないかも知れんし。
ちょっとのいてーはいはいコリャコリャ、
とちょいちょいやると茶トラは退いた。
何。なんで彼処で寝転んどるグレーの猫だけ言う事を聞かんのだ。
物語の本、という物を買う時に、いつも迷う。
実用書なら実用の時を待ちずっと持っておくけれど、
物語は、物語を覚えたら手放す事が多いので。
なので処分の仕方を考えながら買う事になる。
エ口が入ってたり、他に欲しい人が居そうな奴とかは特に考える。
手放しにくいな、大掃除をする時にはこういう手段で手放そう、と。
そんな事を考えながら購入しようとするから、いつも迷う。
自分は本当にその本が欲しいのだろうか、
そこまでして読みたいのだろうか、
いつの日かほんのりと過去の行動を後悔したりしないのだろうか。
そんな風に迷う事が多くなった結果、
余程の事が無いと物語の本を買わなくなった。
そして徐々に、余程の事が訪れても買わなくなりつつある。
でも収納スペースだけの問題なのだろうか。
何にでも電子書籍のあるような日がくれば解決するんだろうか。
いやしかし、PCの中に一生掛かっても読み返さない程の蔵書を抱えていて、
果たしてそれが未来の確保と関係の在る事だろうか。
金メダルは物質的には唯のメダルだけど、手に取る人の想いを呼び起こす鍵になったりして、特別なんだろう。それを獲得した本人にも、もうその過去の通りに体は動かせないとしても。
大抵の人は金メダルなんて持っていないけど、記念写真だってそうかも知れない。山頂の写真を見たって再びその風に吹かれる事が出来る訳じゃないけど、胸の中の登頂を取り戻せる。例え誰にでも登れる山だったとしても。
過去に書いた作品だってそうなのかも知れない。過去の最も熱かった日の、熱さをもう一度取り戻せる。例え誰もが思い描く妄想だったとしても。
脳が疲れてて頭が悪いので酒が飲みたくなるというデススパイラル。
でも、でも私は知っている楽しい事は口を開けて上を向いていても、
決して落ちては来ないと。
だからこの自家発電を終えるまで、決して打ち上がったりしない。
いま仕事仲間が部署移動か退職を迫られている刻限だ。長かった。ほぼ理想通りの展開。僕はその人に何もしないという戦いを挑んだ。ただその人より質の良い仕事をし続け、どんなに非常識な事を言われても同じ非常識の土俵に乗るのを堪えた。その人が自滅するまで、ただ誠意を持って仕事をし続けた。
ただ、自分の発言と失言に最大限の気づかいをした。自分の想いを述べる言葉のチョイス、量、相手、言うタイミング、言えるチャンスを逃がさない事。とても地味で忍耐の要る心理戦だった。
プロットは100%の頻度では今のところ書かない生活だな。紆余曲折やシーン転換がない話なら書かないパターンが多い。だが一番多いのは「話は脳内で決まってるし楽勝」と思ってノープロットで書き始めたら破綻して仕方なくプロット書くパターン。ダメジャン。
プロットは綺麗にストーリーラインの全部は書いてないな。主に作者の仕事が書いて有る。例えて言うなら『「ばかじゃないですか」此処で惨めさを存分に表現(のちの裏切りの納得と彩り)』とか書いて有る。脳内パーツの目次なので他人が読んでもイミフ物件。多分多くの人がそうなんじゃ無いのかな。
そして敢えて他人のそれを見てみたい気もする。