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ココは元S-Silence管理人の日記とかエッセイモドキとかが徒然とごにょごにょしている空間です
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自分と同じ考えの人はきっと何処かにいるさ。ただ、自分と同じ考えの人なら、サイレントマイノリティだからね。だからたった一人の気分を味わってるだけで、多分どっかに居るさ。おそらく誰もが文字にしちゃいけない本音を持ってて、それは隠しとかなきゃいけないって優しさを知ってるんだろう。
印象をコントロールする。
そう聞くと嘘と同義に思われるかも知れないが、それ言っちゃうと小説も化粧も所詮は虚構なのである。ただしその虚構は人を幸せにできる。
普段の態度だってそうだ。本当は大嫌いだけど、そういうのあんまり興味なくて、などとごまかすのは嘘と言うよりは配慮だ。相手の精神をブチのめしてしまうと、大抵は自分の未来も心地よい方へは向かわない。
己からの発信が相手にどう受け取られるか。そんな、分かりもしないことを考え続けるのは疲れる。
けれど印象のコントロールに挑戦し続ける。
互いの幸せの為だ。
物語ってのは完結までがワンセットなんだよ。
終わらせるのに失敗した物語ってのは、洗ったけど干せてない洗濯物みたいなモンなんだよ。
干したことがないなら洗濯の腕があがるわけもない。
そりゃそうだ自作品の仕上がり見た事もないんだもんよ。
服を濡らすだけじゃ成功か失敗かも判断つかない。

何やったらどういう結果になるのかを知っていけ。

目を覚ませ。
選択をしろ。トークで発散して終わるのか、物語に描いてゆくのか。
生乾き臭をそこに放置するのは止せ。何も書かないほうがマシだ。完結してない作品は罪深い消化不良を起こす。ともすると人を不幸にしてる。

それをやっている限りは絶対に上手く成りたいとか言うな。
上達したいなら1000文字でもいいから完結しろ。
やり方が分からないなら傷付く覚悟で人に聞け。
何故にいまなのかは知らないが、学生時代に余所のクラスに転入した時の事を唐突に思い出した。
いわゆる暗黒時代だった。転入前のいざこざから、人付き合いを拒絶したまま卒業までやり過ごそうと、超無口を貫いていた。
なのにクジ引きで文化祭の学芸会の準主役を引いてしまったのだ。
友人不在の超暗い生徒が、和気藹々と練習に参加できるワケも無く、死ぬほど嫌だった。
準主役は、主人公を異世界に誘う怪しい男で、彼の説明が物語を引っ張るのでダントツで台詞が多い役どころだった。
だが、もしも台詞が飛んでも誰にも教えてくれとは言いづらい。
私は誰よりも早く台詞を覚えた。下手だと言われるのは口惜しいので台詞の間を計ったし、乗り気だと思われるのも心外なので厭世的で押し殺したキャラクターを落とし所に演じた。
結果、助演賞をもらった。
我が身を守りきったと思った。
陰口に、あの人やるときはやるという要素が加わった事で、むしろ新たな鎧を得たとも言えた。
いまでも、あの時期に、あの無口で苛められなかったのは奇跡ではないかと感じたりはする。しかし奇跡ではなく、努力と実力だと考えてもいる。
付け込まれるような無能や愚鈍は晒すまいと気を張っていたし、もしも殴られたらゼロタイムで反撃する決心はしていたし、同性なら二人くらいなら相手に出来るほどには鍛えていた。
人にオーラという物が本当にあるのなら、あの時の私からは明らかにヤバいのが立ち上っていただろう。
だが毎日が酷く疲れた。
時が流れて、そんなヤツも普通の大人に見えるように、色々と上手くなっていくワケだが。
周囲に隙を見せないように生きる、だなんて漫画みたいな心境で過ごした日々は、今は財産である。心のゆとりともなり、創作の糧ともなる。

 二十代の頃は自分が拵えたキャラクターに、「こんなマンガみたいな性格の奴なんてリアリティがない!」という感想を抱いていたが、あれからウン年。世間を渡ればマンガみたいな性格の奴は実在しまくってた。
 小説はどう足掻いても人格が織りなす創作物なので、人格のサンプルは沢山あるに越したことはない。
 好きな人格よりも、キライな人格のほうがサンプルとしての価値は高い。キライな人格の多くは自分から遠い性格の例であるし、こいつが芸の肥やしになると思えば精神衛生上も健やかに過ごせる。

 そうしてサンプリングしてゆくと、類は友を呼ぶということわざの真実味が増してきた。「人間は腐ってる」とか、「変なのばかりに絡まれて困る」とかゆってる人は、ゆってる本人が腐ってたり変なのだったりするように感じるのだ。

 空気というものなのかも知れない。「変なのばかりに絡まれて困る」という発言そのものが、変な人からすると絡み甲斐のある雰囲気に見えるのかも知れない。絡まれたら、また発言して、また絡まれる悪循環だ。

 つまり、腐った変な人に付き合わされたくなかったら、多少イヤなことをされても受け流しておくのが肝要だ。絶対イヤなことをされたら捨て台詞とか吐かずに全力で逃げることだ。それらは泣き寝入りではなく、暗黒へのプロテクションだ。
 そうしてまるで一度も絶望したことが無いかのように笑えたら勝ちだ。
 ほがらかな笑顔が、素晴らしい人間を呼び寄せる空気になると信じている。
こういう人が好き、というと、逆の人が嫌いだと捉えられるから、なかなか言えないってのはある。
でもただ口にしないだけでやっぱり好みって物はある。

私はオープンマインドな人が好きなのかなと思ってたが、やや違い、どうも理性を先行させている人が好きだったようだ。
それは白けているという意味ではなく、出る出ない、言う言わないの判断が鮮やかで、安易な欲に走らないだけの忍耐があることだ。

美しいバランスはきっと、
出ない、出ない、出ない……出る。
言わない、言わない、言わない……言う。
夜空の星のように際立つそういう人は、発言の内容まで面白かったりするのは、きっと偶然ではない。
すべてが思慮だ。
「買い食いして歩きながら食べても良いんですか?」
と面と向かって聞かれると、
「目に余ったら飲食禁止になるから雰囲気を壊さないようにね」
としか答えるしかない。
そういう空気読み文化を発達させたからこそ、日本国は路上での飲酒を禁じる法律も作らずに済んでるんだ。

他の何でもそうだよ。
目に余ったら取り締まるしかなくなる。
だから白黒つけない曖昧な世界に保っとくんだ。
「少数派の意見にも一理あったりする」
「そちらが正解に近い可能性すらある」
 それだけを聞くと人々は当然とばかりに頷く。頷くとき、自らもそれを理解する聡明さを持ち合わせていると信じている。
 しかし実際に少数派の意見にぶち当たった時には、常識というものを掲げて堂々と否定する。

「一理あると認めても賛成ではない」
「また反対は攻撃と同義ではない」
 人々は頷く。だが実際に意見の異なる者が喋りだすと嫌悪感をもよおさずには居られない。

 だから私は最初に声を上げた人を貴重に思う。
 原発は危ないとか、同人誌の古本だとか。鮭の遡上もかくやっていう向かい風の時代にもそんな事が言える人が偶にだけ存在する。
 おそらく彼らの9割以上が超迷惑なだけの異端者で、内ごく僅かが開拓者になる。
 それは人類には必要で、だけど多くが罵られながら討ち死にしていくんだろう。
数字を気にしてると知れたら印象が悪いから気にしてないフリをするけど、それは隠し事をしてるっていうよりは、数字の事を考えてるだけじゃ数字は取れないんだって知ってくれてる人ばかりじゃないから、真実を見ていてもらう為に情報を絞っている感じ。
何が言いたいって、ちいさな目標達成おめでとう自分。おまえは思ってた通りのヤツだったよ。やったら出来た。
これを描いているのは絶対にいい人だ、という絵がある。
絶対にいい人だという書もあるし、文章もある。

逆もあるんだよな。
 
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