ココは元S-Silence管理人の日記とかエッセイモドキとかが徒然とごにょごにょしている空間です
長文の感想メッセージはかなり貴重だ。
それは、送り主の文章力ってのはどうしてもあるから場合によっては「もらったけど読みづらい!」って困ることもあるけど、とにかく貴重なのは間違いない。そんだけ労力を掛けて書いてもらう事に成功したんだから。
感想は欲しい。だがストレートに、「感想ください!」と言うのは割と悪手だと考えている。
人間なぜか、頂戴頂戴と手をブンブン振ってると浅ましく映るのか、コイツには与えたくないと避けられてしまうようなのだ。これは当方のギブミーチョコレート的な幼児体験に基づいて言っている。
やはり飽くまでギブアンドテイク。まずは、与えるに値すると認められる働きをするのが肝要なのだろう。
感想を書いてもらう事に成功するのは、なにも偶然ばかりではない。書いてもらいやすい条件というものがある。
そのひとつに「完結」がある。盛り上がってから幕を閉じるのが最高だ。クライマックス直後は読者も「ココが拍手のしどころ!」と分かるからアクションを起こしてくれやすい。
しかしここには重要な心得がある。
感想をもらうために盛り上がる話を書くのではなく、面白い話を書いたら人を揺さぶれるから感想がもらえるのだという基本構造を忘れないことだ。その面白さの為に盛り上がりが有用なだけなのだ。盛り上がりを描くときに感想を期待しても良いが、感想の為に盛り上がりを描いてはいけない。
この関係性を間違えたら詰む。
どう詰むかというと。
一年以上も掛けて「第二部完結!」とかやっても、長文メッセージは1件だったりはするのだ。ゼロの時だってある。
それでも、「私は面白いと思ってる」のならば続きが書ける。
もしも、感想をもらうために書いてたのならばここで意気消沈して詰む。執筆は終わりだ。
だから、「感想ください!」と手をブンブン振る代わりに、書いてる話が面白くなるようコツコツと手間をかける。
そうやって耐え忍ぶ日々を経て、自発的なメッセージを送ってもらえた時には、手を降ったよりもっと良い執筆の栄養になる。
それはそうと、「感想ください!」と手をブンブン振るのも、環境によっては悪くない。
ちゃんと健全な友人関係があったりするのならば良い交流だと思う。
自発的なメッセージは、いわば高級料理のようなものだ。餓死しそうでもこれを狙いに行くのかどうかは、趣味による。
それは、送り主の文章力ってのはどうしてもあるから場合によっては「もらったけど読みづらい!」って困ることもあるけど、とにかく貴重なのは間違いない。そんだけ労力を掛けて書いてもらう事に成功したんだから。
感想は欲しい。だがストレートに、「感想ください!」と言うのは割と悪手だと考えている。
人間なぜか、頂戴頂戴と手をブンブン振ってると浅ましく映るのか、コイツには与えたくないと避けられてしまうようなのだ。これは当方のギブミーチョコレート的な幼児体験に基づいて言っている。
やはり飽くまでギブアンドテイク。まずは、与えるに値すると認められる働きをするのが肝要なのだろう。
感想を書いてもらう事に成功するのは、なにも偶然ばかりではない。書いてもらいやすい条件というものがある。
そのひとつに「完結」がある。盛り上がってから幕を閉じるのが最高だ。クライマックス直後は読者も「ココが拍手のしどころ!」と分かるからアクションを起こしてくれやすい。
しかしここには重要な心得がある。
感想をもらうために盛り上がる話を書くのではなく、面白い話を書いたら人を揺さぶれるから感想がもらえるのだという基本構造を忘れないことだ。その面白さの為に盛り上がりが有用なだけなのだ。盛り上がりを描くときに感想を期待しても良いが、感想の為に盛り上がりを描いてはいけない。
この関係性を間違えたら詰む。
どう詰むかというと。
一年以上も掛けて「第二部完結!」とかやっても、長文メッセージは1件だったりはするのだ。ゼロの時だってある。
それでも、「私は面白いと思ってる」のならば続きが書ける。
もしも、感想をもらうために書いてたのならばここで意気消沈して詰む。執筆は終わりだ。
だから、「感想ください!」と手をブンブン振る代わりに、書いてる話が面白くなるようコツコツと手間をかける。
そうやって耐え忍ぶ日々を経て、自発的なメッセージを送ってもらえた時には、手を降ったよりもっと良い執筆の栄養になる。
それはそうと、「感想ください!」と手をブンブン振るのも、環境によっては悪くない。
ちゃんと健全な友人関係があったりするのならば良い交流だと思う。
自発的なメッセージは、いわば高級料理のようなものだ。餓死しそうでもこれを狙いに行くのかどうかは、趣味による。
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