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ココは元S-Silence管理人の日記とかエッセイモドキとかが徒然とごにょごにょしている空間です
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精神の安定力を自己分析するに、ココ20年で攻撃に対する耐性は爆上がりした。
おそらく歳のおかげ。
しかし例えば
「このクソ汚い部屋の掃除を頼めるのはキミだけ。頼りにしてるよヨロシク☆」
とか突然に言われたら、理不尽を感じつつも、
膨大な作業量に対するシミュレートを止められずエンドレスに頭が回転しすぎて吐き気がしてくる。
お笑い芸人には、自身が本気で笑っちゃったらアウトの局面がある。
人を笑かしたかったら自分がマジ笑いしちゃダメ。泣かしたかったらマジ泣きしちゃダメ。
もちろんそうじゃない手法もあるだろうけど、でも私はクソ真面目にギャグかますヤツを見て笑うことが多いし、無理して笑う人を見た時に泣きそうにもなる。
他人を気づかえる能力と、他人が気にならない能力は、トレードオフの関係にあると思う。
気が付かないと気遣えない。私はその傾向にあるので、例えば会食に出向いてそつなく振る舞ったりするのが苦手だ。反面、色々な人の意見に平等に耳を傾けたりは得意な方だ。
何しろ他人にあまり興味が湧きにくい体質なので思考がデジタル寄りでいられる。
つまり、色んな人が居るよねと思ってしまえるほど薄情なのだ。
自身の取扱説明書をプロフィールに掲げる人が過半数を超えている文化に立ち入って、私は私の身の振り方を考える。
結論として、私はなるべくプロフィールをシンプルにすることにした。
私自身は、私をこう扱って欲しいという期待が殆どない。どうもされたくないという事ではなく、そちらに合わせるという意味でもなく、上手くやっていけたらイイよね。くらいの感じだ。
地雷とやらもあまり無く、また多少は踏まれたとしても、日常生活では地雷を踏んでくるヤツくらいゴロゴロ居るが何とか穏便に対処しなくてはならないものなので、同じく生きる上で上手く捌いていかなければならないものの一つと認識している。

私と友達になる方法はこうですと手の内をさらさないと正解が選べない人は好みじゃないのと共に、私は私の知ってる正解じゃないのをぶつけてくる人が好みだ。
こんなことばっかしてるので私は大体はボッチっている。
合唱とかしてると、メンバーの意識の違いってのは感じる。
スポ根で上手く成りたいマンと、
皆で楽しく過ごせたらOKマン。
これがなかなか、溝が見えないのに深い。

プロの現場でない限り、スポ根マンの方が生息数が少ない。
だから大体はスポ根マンが、楽しくマンの群で過ごす。
楽しくマンの振りをして楽しいねって言って過ごす。

ソロで出来る趣味の場合は、振りはせずに過ごせるだろうけど。
実はスポ根マンは、仲間が欲しくないってわけじゃない。
同じくスポ根してくれる仲間と、
ハードなトレーニングのあとに、楽しいねって言って過ごしたいのだ。
あいつならきっとやってくれる。そう思ってくれるまでやる。
時としてそれが自分の言う所の自己紹介ってやつだ。
会話でどもる人間は自分と同カテゴリだ。まあ度合いはあるが。
より凄めの人へ、見様見真似で生きてきた人間からのアドバイスをするとすれば、対人の緊張感はなくそうと思っても無くなるものではない。なので諦めて擬態をする方がラクだぞ。

落ち着いている時の自分を理屈で覚えてその擬態をする。
ひとつ、胸ではなく腹を膨らませて長い呼吸をする。
ひとつ、低めの声でゆっくりしゃべる。
この二個でまず自分を騙す。態度が変われば自動的に変わるものはある。
その際に特に自分なんて信じなくてなくてもいいし、心拍数が高いままでも大丈夫だ。ただそう動くことだけで十分だ。

もしピンとこないなら、胸だけで速い呼吸をしながら高い声で早口に喋って緊張している時の自分を再現してみて欲しい。その逆が分かってくることもある。

 いつまでも顔面の若さを求めているようなCMがテレビに流れる度に、昔から目を眇めて見ていたところはあったし、今でも割とそうだが。
 自分は以前ほどマメではなくなったな、という、今まさに胸中をよぎった思いも若さを惜しむという意味なら同じなのかも知れない。あの気がついたら1年に400回くらいブログを更新してました、などという継続燃焼はこの先にはもうないだろう。
 ならば、昔よりも良くなったことは何かあるのか? と言うと一番に挙がるのは緊張をし難くなったことだ。初めてに類する局面というものが少なくなってきたからだろう。緊張感がないとも言えるので良し悪しかも知れないが大概はプラスだ。
 もう一つ、便秘がなくなった。これは緊張と連動していると思われる。
 それと何だろう。思い切りが多少は良くなったろうか。スペースシャトルのロケット切り離しみたいなイメージかも知れないが、今後へ向かうに当たり余計だと思う物を削ぎ落とさなくてはと考えるようになってきた。それは前進のようでもあり、諦めのようでもあり、感覚的にはむしろ若さを封じ込める作業に思える。
 それとそうそう。昔ならこの文章は3倍くらいの文字数だったな。でも内容量は変わってないだろ?
葬式は無しでいいよ。
積極的に拒否してるわけじゃないけど、されるのは変に思えてね。
なんでそう思うかの理由は特に無いから説明もしにくい。
なんで死んでるのに葬式して欲しいのかも説明しにくいでしょ?
湧いた感情に後から理由を付けるのなら簡単に出来るだろうけど。

別にしたければすれば良いよ。こちらには関係のない話だし。
ただ、私は葬式に出て誰かと故人の話をしても、それに癒やされたりはあまりしない。大体そういうのは一人で風呂とかでしかやれないんだ。悲しい時に人前に延々と引きずり出されるのは好ましくない。
人にまでその感性を求めはしないけどね。でも自分が人の葬式を盛大に催す気になれるかと言ったら、どうかな。

もし皆で集まることがあるのなら、10秒だけ黙祷してくれたら嬉しいよ。
断言しよう。着物は流行らない。今のままではな。

もしも我々がシンデレラのようなドレスを着たいと思ったならば、それは城でパーティがある時に限るだろう。だが我々は庶民だ。オフィスでは、家事では、電車では、そのコルセットと裾は拷問だろう。
振り袖も、留め袖も、所詮は城でパーティが有る時の『衣装』に過ぎん。庶民がその拷問に自ら飛び込むとしたら、それは趣味の努力だ。

今日、いま、我々は何を着てる。
いま私はジーンズとクルーネックTシャツだ。
もし法事の日なら、フォーマルウェアはブラックパンツスーツだ。
前者は元々採掘労働者の衣服で、後者もメンズルックだ。
巷で噂される着物警察のように、もしも洋服警察が居たならば、現代とはまさに北斗の拳も真っ青の無法地帯と言えよう。キャミソールドレスなんて下着でウロついてるに過ぎん代物だ。

よし、では長襦袢でウロつこうか。着流しでマニッシュスタイルを装おうか。衣紋は面倒だし抜きゼロで。
うん、現状それをやったら視線がキビシイだろうな。1900年後期にシルバーのパンツ履いて歩いた時くらいジロジロ見られそうな予感がする。

無理だよ、平安、室町、江戸時代に整えたルールで現代を生きるのは。洋服はストレッチズボンでどんどん楽になってくのに、ガチガチの帯で椅子に座るだけでもハンデを負いながらなんて生きられないよ。シューズのインソールで足裏のアーチを蘇らせようって時代に、真っ平らの草履を見たらひいばあちゃんの時代かと思うよ。電卓が一台100万円の巨大機械だった頃より、もっとローテクの時代だよ。
一体何者が着物を化石化してるんだ?

私は今から着物の基本を勉強するつもりだが、それは決して着物を着るためではない。
 
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