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ココは元S-Silence管理人の日記とかエッセイモドキとかが徒然とごにょごにょしている空間です
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全員が甲子園の土を袋詰めしている光景にはどうにも疑問を覚える。
まず、量が多すぎないか。
そして、持ち帰らない選択は難しいのか。

量の問題だが。
甲子園の土は野球がしやすいよう調整された物が日々補充されているという。
てことは無料じゃない。また、甲子園の土着の土でもない。
想い入れこそが重要なのなら、小瓶で良いだろう。
はやぶさを見てみろ。小惑星のチリだけで大盛りあがりしてたんだぞ。

持ち帰らない選択の話だが。
ふと、柔道の松本選手がオリンピックで金メダルを噛んでくれと言われても断ったことを思い出す。私はあの時ガッツポーズをした。なぜなら私はそれまで、メダルを噛んだり噛んだふりをしたりする日本人選手を見るたびに、「これだけ皆が噛むと言う事は断れない雰囲気を作られているのかも知れない」と言っていたからだ。松本選手は、「お世話になった方にまだ見せていないのに歯型は付けられない」という断りの文句も非常に上手かった。きっと以後は噛みたくない人は噛まずにいる、その為の道が切り開かれた事だろう。
それに比べ、甲子園の土を持ち帰らない選択は今、道としていま存在しているだろうか? 私は多少なりとも体育会系の同調圧力の強さを知っている。皆が『一丸となって』シューズ袋に土を詰め込んでいる時に、自分だけしないのは無理なのではないか。後輩ならなおさらだ。誰もが道を切り開けるわけではなく、大抵は存在する道を歩くしかないのだ。

だから私は、いつか高校野球界に松本選手のごとく道を切り開く勇者が現れ、親指ほどの小さな瓶に一摘みの土を入れる様子が、物珍しく報道される日を楽しみにしている。
頑張れば良い結果に近づく、という確信がある時の人生は根性論で進められる。
しかし、一度この道が正しいのかどうかを疑った時の人生は、賭け事として進めるしかない。多分それは自由と呼ばれてるものだ。
仕事でフェイスブックとか使いますけど。

SNSに上げ続けられる桜の写真は、95%が素人作品なのだろう。
残りの写真は多分、4%は素材屋さんか何か、1%は本人がプロか本気アマ。
予想ではこんなくらいかな。

この上、ド素人の私が、桜の写真を撮ってSNSに上げてどうなる?

見飽きた。
画面がピンクい。
皆せめて桜の横にある物とかを重点的に撮ってくれ。
木の皮でもいい。ピンクじゃないヤツ撮ってくれ。
もはや、桜バック自撮りで絵面に締める人間の面積が70%超えてるようなのの方が、返ってセンスあるように見える。
旅行は好きじゃなくてね。

遠くに行くと疲れるし、辿り着けないか、もしくは帰れない気もする。
でも遠くに来ちゃった以上は、辿り着くか帰るかしなきゃいけないしね、
でもとてもとても遠くに来ちゃったんだとしたら、もう辿り着くしかない。
そしてそこに住む。

いや、例え話としてね。
諦めたらそこで試合終了だが、
諦めてなくても終了の笛が鳴ったら試合終了だ。
最初からそれに気付いていたとしても、試合の序盤には実感することは出来ない。
どうしても。
恐がりで面倒臭がりの人物がこの度、必要に迫られた為、
長年避けてきたSNSをついに使い出した。
Facebookに登録したらしいが、その二日後に利用停止されたと言ってきた。

次に、
長年避けてきたスマホをついに使い出した。
LINEをやるためだったらしいが、その翌日に利用停止されたと言ってきた。

どうやったら立て続けにSNSでBANを食らうようなマジックが起こるのか。
多分、その恐がり故に、
登録しては削除するような最も恐い事をやったのだろう。
基本感覚がずれているのは、やはり長年のツケが降りかかっているとも言えよう。
車だろうが、箸だろうが、会話だろうが、世の中のあまねく道具には修練が要る。
だから、「それが必要になる日まで避け続ける」という事はしてはならないのだ。
一人のリラックスタイムに手にしている飲み物が偶々温かい物だった時、
「これを飲んで。体が温まるわ」
と口の中で呟いてから一口目を含む癖が、以前はあった。今はない。

何故、そう呟く癖があったのだろうか。
何故、その癖はなくなったのか。
分析してみる。

結論から言うと、この癖がなくなったのは小説を書かなくなってからだろう。

自分のストーリーの書き方は脳内演劇型なので、書いている最中はキャラクターを演じる。登場人物AやBやCに入れ替わり立ち替わり成り代わって、自分一人でやりとりする。体を動かして台詞を言う。
動く、言うと言っても、その心境になろうとするだけなので、現実の動作量はあまり関係ない。なので精々、頭の中の動作や台詞に合わせて手がゆらゆらしたり、唇が動いているだけだ。

頭の中で言う台詞に合わせて、唇が動く。
自分にとってその行動が心境の同化作業だとすると、
「これを飲んで。体が温まるわ」
と言われてから飲む事は、どういう心境への移行を試みているのだろうか。
想うに、このシーンで温められるのは体ではないのだろう。
自分にとっては歴史的な瞬間でも、それを知るのは自分ただ一人で、何事も無かった様に流れ去るのを見遣る。多くの人の、多くの出来事はその様なものかも知れない。
誰だって、初なんとかの集合体で出来上がっているのだろう。
万博記念公園でプロジェクションマッピングを見た。2回見た。
1回目は普通に見た。
2回目は頑張ってSNS用の写真を撮り続けた。


私はSNS用の写真を撮るためには頑張りたくない。
というと、カッチーン☆とくる人が居そうだ。
しかし、
「私トマト嫌いなんだー」
ならば、
「そういう人も居るよねー」
で済みそうなのに。
「私SNS嫌いなんだー」
だと
「あ、そうなんだ?」
以後別カテ人類あつかいされそうな今日。

まあ自らに於いては、特にSNSが嫌いという事も無く、
単にライブの方が好きなので、撮影よりは肉眼視を優先しているだけなのだが。
「撮影したくない派」というだけでも聞こえの悪そうな現状なので、
特に主張をする必要もないので黙っているわけである。

もしも小学生がこんなことをゆってたらどうだろうなーと思う。
「夏休みの思い出? テレビで花火大会を見ました。生で見る? したことないです。というか別に要らないです。テレビで見ても一緒だと思います」
多分、8割以上の人が、
「この世間知らずが、外に出ろ!」
と思うんじゃなかろうか。
しかしながら、
「頭上の花火? 半分以上は肉眼で見てたし、音も本物を聞いてました。みんなが拍手するトコでは脇にケータイ挟んで一緒に手も叩いてました。私は十分にライブを楽しんだと思います」
というのは、私の印象では前述の小学生と五十歩百歩なのである。

しかしながら、食わず嫌いも良くないし、仕事とのつながりもあるので。
SNS映えする写真を撮ろうとする生活も、そこそこ本気で試してみている。
今のところはやはり肉眼で生きる生活の方が得る物が大きいよう思える。
ということで自身はあまり写真を撮る時間を使いたくないが、
他の人が写真を奢ってくれる分は良いワケである。

自分の人生を想うに、憧れの存在よりも
反面教師の方がずっと大きな成長のカギになっている気がする。

これは完全に個人的な性格に因るものだと思うが、
既存のものに価値を感じにくい性質に於いては、
「自分がこうだったら良いのに」という具体例は、
どちらかというと、やる気を削がれる要因の方になりやすい。
反対に「自分はこうはなるまい」という例を目にした時には、
その不快感を払拭するため、そうではない自分像の構築に勤しむ傾向がある。
 
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