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ココは元S-Silence管理人の日記とかエッセイモドキとかが徒然とごにょごにょしている空間です
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生きてりゃ嫌なヤツはいっぱい居るさ、ってみんな言うさ。
ただ、その対処法には割とバリエーションがある様で、敢えて味方につけに行くやら、徹底的に抗戦するやら。

一番性に合う行動はスルーなのだけど、一番性に合う精神はというと難しい。
無視しようとするのは案外に平常心ではない気がする。それはまるで一箇所だけ白塗りした絵画みたいに不自然な心持ちに思える。
忘れようとするのは危険な気がする。自分に対して害のある相手だから嫌な訳なので、そこは忘れず警戒する必要があると思う。
かといって注目するのは言語道断だ。人生の力を楽しくない者に裂くのは最も性に合わない。

行動はスルー。精神もスルー。
それは一つの答えなのだろうが、それは悟りの境地だ。凡人には出来かねる。
もしも凡人が嘘偽りなく心から相手を居ない扱いできるなら、それは実質的にかなりの高みに立てた時とかだろうと思う。これを目指すのは現実的ではない。

一つ、自動車を思った。
自動車は危険だが、危険だと思うだけで嫌悪感がない。熊も危険だが嫌悪感はない。土砂崩れも危険で怖いが嫌悪は催さない。
とすると、嫌なヤツを効率的にスルーする技術として、あんまり人間だと思っておかない方向性が考えられる。この世という存在に必ずある構成物として捉える。この考え方は心持ちを作りやすいので性に合っている様に思える。便利だ。
便利なだけでなく、相互的に有用なやり方かも知れない。何故なら、私を嫌なヤツだと思っている人もこの考えを持っていてくれれば、穏便にスルーしてくれるからだ。
ま、持ってないから嫌なヤツなんだろうけどね。
最近のヒット。
「そのようなご対応は出来かねません」
「どうやら間違えそこねてしまったみたいだ」
全員が甲子園の土を袋詰めしている光景にはどうにも疑問を覚える。
まず、量が多すぎないか。
そして、持ち帰らない選択は難しいのか。

量の問題だが。
甲子園の土は野球がしやすいよう調整された物が日々補充されているという。
てことは無料じゃない。また、甲子園の土着の土でもない。
想い入れこそが重要なのなら、小瓶で良いだろう。
はやぶさを見てみろ。小惑星のチリだけで大盛りあがりしてたんだぞ。

持ち帰らない選択の話だが。
ふと、柔道の松本選手がオリンピックで金メダルを噛んでくれと言われても断ったことを思い出す。私はあの時ガッツポーズをした。なぜなら私はそれまで、メダルを噛んだり噛んだふりをしたりする日本人選手を見るたびに、「これだけ皆が噛むと言う事は断れない雰囲気を作られているのかも知れない」と言っていたからだ。松本選手は、「お世話になった方にまだ見せていないのに歯型は付けられない」という断りの文句も非常に上手かった。きっと以後は噛みたくない人は噛まずにいる、その為の道が切り開かれた事だろう。
それに比べ、甲子園の土を持ち帰らない選択は今、道としていま存在しているだろうか? 私は多少なりとも体育会系の同調圧力の強さを知っている。皆が『一丸となって』シューズ袋に土を詰め込んでいる時に、自分だけしないのは無理なのではないか。後輩ならなおさらだ。誰もが道を切り開けるわけではなく、大抵は存在する道を歩くしかないのだ。

だから私は、いつか高校野球界に松本選手のごとく道を切り開く勇者が現れ、親指ほどの小さな瓶に一摘みの土を入れる様子が、物珍しく報道される日を楽しみにしている。
頑張れば良い結果に近づく、という確信がある時の人生は根性論で進められる。
しかし、一度この道が正しいのかどうかを疑った時の人生は、賭け事として進めるしかない。多分それは自由と呼ばれてるものだ。
仕事でフェイスブックとか使いますけど。

SNSに上げ続けられる桜の写真は、95%が素人作品なのだろう。
残りの写真は多分、4%は素材屋さんか何か、1%は本人がプロか本気アマ。
予想ではこんなくらいかな。

この上、ド素人の私が、桜の写真を撮ってSNSに上げてどうなる?

見飽きた。
画面がピンクい。
皆せめて桜の横にある物とかを重点的に撮ってくれ。
木の皮でもいい。ピンクじゃないヤツ撮ってくれ。
もはや、桜バック自撮りで絵面に締める人間の面積が70%超えてるようなのの方が、返ってセンスあるように見える。
旅行は好きじゃなくてね。

遠くに行くと疲れるし、辿り着けないか、もしくは帰れない気もする。
でも遠くに来ちゃった以上は、辿り着くか帰るかしなきゃいけないしね、
でもとてもとても遠くに来ちゃったんだとしたら、もう辿り着くしかない。
そしてそこに住む。

いや、例え話としてね。
諦めたらそこで試合終了だが、
諦めてなくても終了の笛が鳴ったら試合終了だ。
最初からそれに気付いていたとしても、試合の序盤には実感することは出来ない。
どうしても。
恐がりで面倒臭がりの人物がこの度、必要に迫られた為、
長年避けてきたSNSをついに使い出した。
Facebookに登録したらしいが、その二日後に利用停止されたと言ってきた。

次に、
長年避けてきたスマホをついに使い出した。
LINEをやるためだったらしいが、その翌日に利用停止されたと言ってきた。

どうやったら立て続けにSNSでBANを食らうようなマジックが起こるのか。
多分、その恐がり故に、
登録しては削除するような最も恐い事をやったのだろう。
基本感覚がずれているのは、やはり長年のツケが降りかかっているとも言えよう。
車だろうが、箸だろうが、会話だろうが、世の中のあまねく道具には修練が要る。
だから、「それが必要になる日まで避け続ける」という事はしてはならないのだ。
一人のリラックスタイムに手にしている飲み物が偶々温かい物だった時、
「これを飲んで。体が温まるわ」
と口の中で呟いてから一口目を含む癖が、以前はあった。今はない。

何故、そう呟く癖があったのだろうか。
何故、その癖はなくなったのか。
分析してみる。

結論から言うと、この癖がなくなったのは小説を書かなくなってからだろう。

自分のストーリーの書き方は脳内演劇型なので、書いている最中はキャラクターを演じる。登場人物AやBやCに入れ替わり立ち替わり成り代わって、自分一人でやりとりする。体を動かして台詞を言う。
動く、言うと言っても、その心境になろうとするだけなので、現実の動作量はあまり関係ない。なので精々、頭の中の動作や台詞に合わせて手がゆらゆらしたり、唇が動いているだけだ。

頭の中で言う台詞に合わせて、唇が動く。
自分にとってその行動が心境の同化作業だとすると、
「これを飲んで。体が温まるわ」
と言われてから飲む事は、どういう心境への移行を試みているのだろうか。
想うに、このシーンで温められるのは体ではないのだろう。
自分にとっては歴史的な瞬間でも、それを知るのは自分ただ一人で、何事も無かった様に流れ去るのを見遣る。多くの人の、多くの出来事はその様なものかも知れない。
誰だって、初なんとかの集合体で出来上がっているのだろう。
 
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