既に世間を賑わしている事であるが、私もやはり中学での柔道授業義務化には異議を唱えたい。これもよく取りざたされる理由ではあるが、柔道先進国フランスと比較するに、日本の指導体制は余りにお粗末だからだ。
日本では中学、高校における柔道事故の死亡者は1983年から2010年の28年間で114名に登るということだが、フランスでは、世界最大の60万人の柔道人口を誇りながらも近年の死亡事件はゼロ件だという。
フランスでは、かつて柔道指導中に起きた1名の死亡事故を切っ掛けに、柔道指導には国家免許が必要となった経緯が有る。資格を得るには、救急救命などや生理学やスポーツ心理学なども含めて300時間以上の学習、訓練を経るとの事だ。
それに比べ、日本では専門教育を受けていない体育教師が見よう見まねで指導をする。それでは、安全な受け身も取れずに死んでいく児童が後を絶たないのも道理ではなかろうか。
1名の犠牲の後、犠牲者ゼロの対策を布いたフランス。
114名の犠牲を出し続けて、なお事故の続く日本。
ふと頭を過ぎるのは、福島第一原子力発電所の原発事故の事だ。フランスと日本と言えば世界有数の原発推進国だが、特にフランスは、日本の事故後にも原発推進路線を明言した事で記憶に新しい。
フランスには「私達は原発を完全にコントロールする自信が有る」という想いがあるのだと、ある人は言う。それは根拠の無い自信だろうか。柔道指導免許の事例から伺えるよう、確かにフランスは“管理をする”ことに於いて完全に近い。
だからフランスでは、パリの近くに原発があるのではないか。
さて日本では、東京の近くに原発を作れただろうか?
作れなかった。口では安全と言いながらも、安全に管理する実力を自ら信じて居なかったのが伺える。本当に安全と信ずるのであれば、送電ロスも少なく、管理人員も配備しやすい東京近郊に原発は置けたはずだ。
私はフランスでの原発推進を支持している訳でも無い。やはり人間に完全な管理などは有り得ないだろう。
柔道の授業なら唯の一度の不完全は1名の犠牲だったろうが、原発の事故は唯の一度の不完全はその後の数万年に渡り続く放射能汚染だ。そう考えるなら、「原子力は人の手に余るものだ」と言う意見にも頷ける。
しかし、フランスほどの管理力があれば、次代のエネルギーを発見するまで、その高い安全確立を踏み外すまでの猶予を、無事故で乗り切れそうな気もするのだ。
そして日本には、原発は疎か柔道の管理ですらも荷が重いのが実情ではないだろうか。
なんて事を言い続けると、そろそろお前は誰だと言われそうだし、もしどっかからツッコミが入っても反証するほどに論のストックが有る訳でもない。
ぼやきだ。
どるぁあああ!
口で全部言うなあああ!
流れでやれー!!!
割と誰にもよく有る事だとは思うのだけれど、こんな台詞を聞く。
「あのひとは人の悪口ばかり言うし付き合いにくいんですよね」
私は、
「あの方にも色々ご苦労があるんだと思いますよ?」
と返しながら、目の前の人物を『悪口ばかり言う人』にカウントしている。
確かに全ての場で悪口を飲み込むと病気になる。
だからせめて言う場所を決めておこうと思った。
それが自分の部屋だ。つまりこのブログだ。
「何となく」って言うと話が終わっちゃうからなあ。そこを何とか。
ほら、言葉化する事で想いが劣化するのなら
コンバートが下手なのかも知れないじゃない。
頭が良いとか、頭が良いんだろうな、と言われた事、
それ自体は誇らしく無くはないけれど、
何となく『あなたとは打ち解けないでしょうね』
と言われた気分にもなるのだと思う。
多分、頭が良いんだろうな、と
思われる事と、
言われる事は、
大分違うのだと思う。真逆な程に。
「そんなことないよ」と言ってもらえるのを待ったりしない。
だから自分で言うぜ、俺はそんなことねえよ。絶対だ。
言おうと思わなければ「明けましておめでとう」と言わなくても済む、
そんな自分勝手なそのブログ、そのツイッター、そのサイトページ、
最高。
現実では泣けるものじゃない。
自分の心情ではどうにも泣けないモンだ。下らなすぎて。
だから他人の心情を借りる。大仰な奴を。
それなら泣いて良いと自己許可も出やすい。
何を得るか。何を出すか。感情と感情をトレードする。
唯の現実では割と何処までも我慢が出来てしまうからね。
夢の制御回路。それは崩壊させる役目の装置なんだろう。
感想を書かない時でもその作品に泣いている時があるよ。
リプライしない時でもそのツイートに笑っている事が有るよ。
君が思うよりもっと強く、だけど目を閉じて静かに。
溢れるのを待っているよ。溢れたら言うよ。
分かって欲しい、と思った時に語り始めるが、
分からないだろう、と思いながら喋る。
更に時が経つと、分からないだろうから、と思って語るのを辞める。
140文字打てても10文字しか言わない時もある。
面倒だからである事もある。人の気を乱さない為である事もある。
自分の胸の中をとりだして伝達性のある言葉にするのは労力が要る。
唯じっと居て伝わるならそれが一番心地よい。