少年よ少女よ、それは大人もやる失敗だ。名付けた後にそれが勘違いや、他文化でのマイナスイメージ言語であった事に気付く。それがいつか笑って済まされない日が来る。やらかすとやらなかったのと同じには戻れない。
だからものを覚えてるんだ、崇高なことだけじゃなく、クソくだらないことまで出来るだけ沢山。もし君が帝王になるなら尚更。
と言う物を人々は如何ほど持っているのだろう。
僕は腐る程に持っている。言い様に因っては正に腐り終えている。
何かに例えて言うならば、
漁師に成りたかった時の投網、達筆に成りたかった時のすずり、
そんな物だ。
僕はそれを、使い切る努力か、捨てる努力かをしなければならない。
そのどちらでもない選択肢、勿体ないと言う選択肢は本当は無い筈だ。
人生では誰でも度々
「これは目立つことだろうな」という局面が、
パフォーマーの役目が回ってくる局面が、
有ると思う。
学芸会や合唱会だったりするかも知れない。
研究発表だったり又、その他のプレゼンテーションかも知れない。
推薦や立候補などで選抜の少人数なのかも知れないし、はたまた、
全員が一度はソロで喋る番が回って来るような、そんな、
例えば自己紹介の機会とかかも知れない。
いつからだろう、目立つのを厭わない自分の性質に
言い訳しなければいけない気分になったのは。
目立つのが好きな人、と人が口にする時、
それは褒めているのか。貶しているのか。
僕が目立つのを厭わないのは、
もちろん幾ばくかの自信が有る場合もあろうが、
基本的には、目立つに備えての学習や反復練習を厭わない場合である。
一生懸命誠実にやった、だから何も恥じる事は無い。
とだけは言い切れる様にして置くからである。
そういう問題ではない、と言う人は居る。それも分かる。
結局自分もそういう問題ではなくドキドキドギマギしているクセに
それを隠しているだけという側面も有るからだ。
隠すと言う事は徹底的に立ち向かうという事である。
物事には、80%だけ本気、などと言う事は無い。
本気か、本気じゃないか、のどちらかなのだ。それが本気と言うものだ。
ちょっと様子を見つつ徐々に本気、とか、
そんなのは本気というその本質的には有り得ない。
心のリミッターがやや高回転域に設定されている僕だけれど、
やはり人から眉を顰められたりするのは好きでは無い。
けれど80%は無い、のであれば、
周囲のリミッターを上方へ吹っ飛ばすまで本気になるしかないのだ。
何も考えずそうであるかの様に見えたなら、それがベストだ。
漫画が好き、音楽が好き、と言うと往々にして
ではあの作を知っているか、この作を知っているか、という
数の話になる。
最近のは知らないんで、と言うと、
じゃあ君の世代ならコレとか知っているだろう、と来る。
そのジャンルはあまり、と言うと、
じゃあ君のジャストミートジャンルならコレとかどうだ、と来る。
僕は気に入った数作を何度も何度も何度も楽しんで、
頭の中で何度も思い返して、リピートして、想像を作品の外に及ばせたり、
又は深く掘り下げたりするのが愛し方なのである。
消費し終えたら次に目が向く訳ではない。
もしかすると、その場合には
漫画が好き、音楽が好き、と言ってはいけないのかも知れない。
僕は唯、
超人ロックとFSSとスラムダンクとetc etc etc...
I will always love you とまちぼうけとetc etc etc...
が、好き。
と言わなければいけないのかも知れない。
しかし流石に日常会話では漫画が好き、音楽が好き、と要約せざるを得ない。
次々と流れ来る情報を沢山キャッチするタイプじゃない。
受け取ったボールをいつまでも抱きしめて自分が踊りたいんだよ。
その言葉を知っているからと言って、その事を知っている訳ではない。
と言うのはよくされる話だけれど、
やはり単純に考えて、沢山の言葉を知っていると言う事は、
沢山の物を知っていると言う事なのだ。
さて私は今日触れたいくつの言葉を知らなかったか。
そして幾つの思いを伝達する折り言葉に窮したか。
みんなが自分を好きになる。
っていう妄想は悪くないと思うよ。
逆の妄想を抱いてる人は、運を呼ぶ実力の無い人さ。
何を飲めば良いのか分からない夜はあるが、ふと脳裏に「これを飲んで? 心が落ち着くわ」と言ってカウンターに、とん、と置かれる何かを本当に有り難いと思う瞬間を浮かべて、その飲み物を想像する方法で自分の欲しい物を割り出す事もある。
ガラスを引っ掻く音が嫌いなのなら堂々と言える。
しかし、あの一般的な音が嫌いだとは訴えにくい。
汚い俗語が嫌いなのなら堂々と言える。
しかし、あのキュートでポップな俗語が嫌いだと訴えにくい。
一番の問題は、ガラスを引っ掻く音と同じで、
「何故に嫌いなのか」というその理屈は無い事だ。