ココは元S-Silence管理人の日記とかエッセイモドキとかが徒然とごにょごにょしている空間です
いきつけのランチ屋に、キャパシティが低めのホールスタッフが居る。
具合としては、4人組から追加オーダー受注、1人客のオーダー品が出来上がり、2人が新規来店、この辺りで捌ききれなくなる。大した数じゃない。他の従業員なら滞りなくこなしていただろう。
そんな時、とあるライブハウスの従業員達をふと思い出す。「○○先輩ちょー客捌き早過ぎてこんなんついてけないッス」、とか言っていた新人アルバイター達が次々と調教されていく、そんな店の事だ。
ジャズ系の音楽ハウスのホールスタッフは過酷だ。チケット制のセルフサービスなどではなく、通常の飲み屋店形式でオーダーを受けたりする。すべての客に、オーダーを聞いて、届けるという手順が要る、のだが。
開演直前にどっと固まって客がくる。
開演すると意志疎通は身振り手振りに頼る面が多い。
そもそもの人口密度が凄まじく、椅子の後ろに通れる隙間があるとは限らない。
という感じで、大体の週末はホールスタッフ一人頭30人以上の客を捌く地獄となる。
するとやはり、入って間もない従業員は週末の戦力にならず、覚えが早い方でも一ヶ月は慣れて貰ってからの金曜出撃となるのだ。
しかし、興味深かったのはむしろ覚えの遅い人の方で、「この人、泣きそうだし辞めるかな?」と思っても、6ヶ月も耐え抜けばキャパシティが上がっている。一人頭30人以上を何度か体験してしまうと、一人頭15人なら「今日ヒマっすねえー」などと余裕をかますようになる。実際、余裕だ。何しろ客が半数なら通路も広くなるし、オーダー管理もしやすい。必要なパワーは半分どころではなく、もっと少なくなる。
そこで思うのだ、覚えの遅かったその人は、一人頭15人の日々ばかりをずっと続けていても、6ヶ月後には余裕発言をかましたろうかと。
勿論そんな実験をすることは出来なかったが、おそらく、MAXの引き上げ無しに余裕は感じなかったのではないだろうか。
強い体の話では、筋トレをはじめとする後天的要素が語られる事が多く感じる。
だが、強い頭の話では、知能指数をはじめとする先天的要素が意識されがちな気がするのだ。
実際には、どちらも同等に、先天的なスタートライン差を持ち、また大リーグ養成ギブス的な負荷トレーニング対象なのではなかろうか。
いずれにせよ、無理をすれば死んでしまう。けれど、もしも毎日が楽だとか、退屈だとか感じる生活なのならば、それは。
具合としては、4人組から追加オーダー受注、1人客のオーダー品が出来上がり、2人が新規来店、この辺りで捌ききれなくなる。大した数じゃない。他の従業員なら滞りなくこなしていただろう。
そんな時、とあるライブハウスの従業員達をふと思い出す。「○○先輩ちょー客捌き早過ぎてこんなんついてけないッス」、とか言っていた新人アルバイター達が次々と調教されていく、そんな店の事だ。
ジャズ系の音楽ハウスのホールスタッフは過酷だ。チケット制のセルフサービスなどではなく、通常の飲み屋店形式でオーダーを受けたりする。すべての客に、オーダーを聞いて、届けるという手順が要る、のだが。
開演直前にどっと固まって客がくる。
開演すると意志疎通は身振り手振りに頼る面が多い。
そもそもの人口密度が凄まじく、椅子の後ろに通れる隙間があるとは限らない。
という感じで、大体の週末はホールスタッフ一人頭30人以上の客を捌く地獄となる。
するとやはり、入って間もない従業員は週末の戦力にならず、覚えが早い方でも一ヶ月は慣れて貰ってからの金曜出撃となるのだ。
しかし、興味深かったのはむしろ覚えの遅い人の方で、「この人、泣きそうだし辞めるかな?」と思っても、6ヶ月も耐え抜けばキャパシティが上がっている。一人頭30人以上を何度か体験してしまうと、一人頭15人なら「今日ヒマっすねえー」などと余裕をかますようになる。実際、余裕だ。何しろ客が半数なら通路も広くなるし、オーダー管理もしやすい。必要なパワーは半分どころではなく、もっと少なくなる。
そこで思うのだ、覚えの遅かったその人は、一人頭15人の日々ばかりをずっと続けていても、6ヶ月後には余裕発言をかましたろうかと。
勿論そんな実験をすることは出来なかったが、おそらく、MAXの引き上げ無しに余裕は感じなかったのではないだろうか。
強い体の話では、筋トレをはじめとする後天的要素が語られる事が多く感じる。
だが、強い頭の話では、知能指数をはじめとする先天的要素が意識されがちな気がするのだ。
実際には、どちらも同等に、先天的なスタートライン差を持ち、また大リーグ養成ギブス的な負荷トレーニング対象なのではなかろうか。
いずれにせよ、無理をすれば死んでしまう。けれど、もしも毎日が楽だとか、退屈だとか感じる生活なのならば、それは。
A.面白いですよ。複数人カラオケが祭なら、一人カラオケは映画鑑賞とスポーツジムの合いの子って感じですね。私は全身運動の為にも通っているので、一人ジョギングみたいな要素があるんです。体は放っておくと衰えるから、行きたくなくても週に一度以上は行くようにしています。そして、既に知っているストーリーを何度も見返すように、毎度新しい感情や発見があるのは、きっと映画と似ているんだと思います。ただし、参加型の発見である所はスポーツ的です。
人間、病気で苦しい時には出せるだけの金を出すから治してくれと思ったりする。
僕も十万と言われれば十万払ったろう。
だから一万で済んで良かったとでも思っておくのが気が楽だ。
そうでもしないと、健康ならゼロ円で済んだのにという雑念にも踏まれてしまう。
健康はプライスレスという名のゼロ円。そしてそこからちぎり取られた物は一万円。
不思議か。そうでもないな。要はゼロ円が最高額なんだな、資産として。
僕も十万と言われれば十万払ったろう。
だから一万で済んで良かったとでも思っておくのが気が楽だ。
そうでもしないと、健康ならゼロ円で済んだのにという雑念にも踏まれてしまう。
健康はプライスレスという名のゼロ円。そしてそこからちぎり取られた物は一万円。
不思議か。そうでもないな。要はゼロ円が最高額なんだな、資産として。
それにお答えする為には貴方の言う神がどういったものなのか、お聞きせねばなりません。
例えば、私が水を見た時、水の事を神と思っていて良いのですか? 空気を吸う時それを神と思っていて良いのですか? また、私はそれらの事を水や空気と思っていますがそれで良いのですか? その他あらゆるものをその名でしか呼んでいませんが、それでも良いのですか?
例えば、私が水を見た時、水の事を神と思っていて良いのですか? 空気を吸う時それを神と思っていて良いのですか? また、私はそれらの事を水や空気と思っていますがそれで良いのですか? その他あらゆるものをその名でしか呼んでいませんが、それでも良いのですか?
もしも現実世界で「月がキレイですね」って口説いて来る奴が居たら多分、ロマンティックっていうよりは「あ、こいつ相手の教養を試すタイプか?」と感じる予感がするのよね。
うん、いま気付いたけど自分、敬語タイプに弱いね。
とにかく今日は、カカッとしてていい月だ。
うん、いま気付いたけど自分、敬語タイプに弱いね。
とにかく今日は、カカッとしてていい月だ。
私は幼い頃は、常識だろう、というような台詞をよく言っていたんですが、知らない趣味と出会い、知らない場所へ行き、そこに居る人に会ったり、ある集団に入ったりする内に、常識の多様さを思い知って、どんなことも常識だろうとは言えなくなってしまったんですが、ちゃんとひとつの常識を自身に定着させるのが健全だと思いますよ常識的に考えて。
台風で荒れる波に近づく肝試しで男子生徒死亡。
そんなニュースを聞いた。
「肝試ししよーぜー」
「「「いえーい」」」
「俺はやらない。俺の命はそんなに安くない」
「とか言って恐いんじゃねえの?」
「何おまえ白ける」
「なんとでも言え。(例え明日になったらLINEからもツイッターからも弾かれクラスで不名誉な噂を流されて生活が苦痛に満ちたとて孤独に戦い生き抜く覚悟を決めたから)俺はやらない」
成る程、本当の肝は断る時に試されるのか。
そんなニュースを聞いた。
「肝試ししよーぜー」
「「「いえーい」」」
「俺はやらない。俺の命はそんなに安くない」
「とか言って恐いんじゃねえの?」
「何おまえ白ける」
「なんとでも言え。(例え明日になったらLINEからもツイッターからも弾かれクラスで不名誉な噂を流されて生活が苦痛に満ちたとて孤独に戦い生き抜く覚悟を決めたから)俺はやらない」
成る程、本当の肝は断る時に試されるのか。
『仮説』の対ワードは『予測』だ、ある意味。
仮説というのは、起点から複数の道を伸ばせる。得意であればあるほど道の本数は増やせる。
一方、予測というのは起点から伸びる、一本の道を見つける事だ。得意であればあるほど道の本数は減るだろう。
仮説後に予測。
それがバランスの良い思考経路だろう。
考え得る範囲を広く、見当は的確に。それは理想だ。
そこに偏りがあればどうだろう。
仮説寄り……迷い
予測寄り……決め付け
という図式だろうか。
さて、私はというと、極めて仮説寄りの人間だ。以前に私は自らの思考のイメージを、起点から三次元的全方位へ毛細血管のように伸び広がって行ってしまう感じと表した事がある。そう、しまう、のだ。止められない。この特性がプラスに働くのはストーリーを考える時くらいだ。(もしかすると20年以上も続けたそれこそが特性の原因なのかも知れない)
そして私にはこの特技とバランスを取るに足るほどの予測能力はない。
予測に長けた人はどういう感覚で世の中を渡っているだろう。
機会があれば話を聞いてみたい。
仮説というのは、起点から複数の道を伸ばせる。得意であればあるほど道の本数は増やせる。
一方、予測というのは起点から伸びる、一本の道を見つける事だ。得意であればあるほど道の本数は減るだろう。
仮説後に予測。
それがバランスの良い思考経路だろう。
考え得る範囲を広く、見当は的確に。それは理想だ。
そこに偏りがあればどうだろう。
仮説寄り……迷い
予測寄り……決め付け
という図式だろうか。
さて、私はというと、極めて仮説寄りの人間だ。以前に私は自らの思考のイメージを、起点から三次元的全方位へ毛細血管のように伸び広がって行ってしまう感じと表した事がある。そう、しまう、のだ。止められない。この特性がプラスに働くのはストーリーを考える時くらいだ。(もしかすると20年以上も続けたそれこそが特性の原因なのかも知れない)
そして私にはこの特技とバランスを取るに足るほどの予測能力はない。
予測に長けた人はどういう感覚で世の中を渡っているだろう。
機会があれば話を聞いてみたい。
選んだ結果、絶対に、なにやってんだろ、なんでこんなことやってんだろ、と思う日は来る、絶対にいつか来る。
選択肢の中には混じりけなしの楽のみが存在するルートなんて滅多に有り得ないし、だとすると僅かなりとも後悔を含まない未来は滅多に存在しないことになる。
そのようして、どんなに賢明な道の中にだって茨があるとして。
実際にはその賢明な道も何度も踏み外すだろう。
現実の選択肢は、無数の各選択肢同士が大きく小さく影響しあい、その天文学的な分岐はもはやグラデーションにしか見えない。
100%の正解など探せるわけがない。それは考えようによっては気楽な事なのかも知れない。道がタダシかろうが、マチガっていようが、払う茨の量が変わるだけなのだから。
なんて言えるのは力に余裕のある奴だけ。
選択肢の中には混じりけなしの楽のみが存在するルートなんて滅多に有り得ないし、だとすると僅かなりとも後悔を含まない未来は滅多に存在しないことになる。
そのようして、どんなに賢明な道の中にだって茨があるとして。
実際にはその賢明な道も何度も踏み外すだろう。
現実の選択肢は、無数の各選択肢同士が大きく小さく影響しあい、その天文学的な分岐はもはやグラデーションにしか見えない。
100%の正解など探せるわけがない。それは考えようによっては気楽な事なのかも知れない。道がタダシかろうが、マチガっていようが、払う茨の量が変わるだけなのだから。
なんて言えるのは力に余裕のある奴だけ。
友人に掛ける力の千分の一も恋愛に掛けない人種は居る。
そういう人間が何故か恋愛物語は見ていたりすることもあるようだ。
更に恋愛ソングも嫌いではなかったりする。それは大抵が異性の歌うものであるが、それももしかするとある種の道理に適っているのかもしれない。
と、僕はつらつら自己分析する。
一方、三次元恋愛ドラマには全く興味がないのは感情移入に難があるからも知れない。空想の余地もない程の具体例には自分を差し挟めない。
ならば一番思い入れが出来るのは自分で書くことだとも理解できる。
そういう人間が何故か恋愛物語は見ていたりすることもあるようだ。
更に恋愛ソングも嫌いではなかったりする。それは大抵が異性の歌うものであるが、それももしかするとある種の道理に適っているのかもしれない。
と、僕はつらつら自己分析する。
一方、三次元恋愛ドラマには全く興味がないのは感情移入に難があるからも知れない。空想の余地もない程の具体例には自分を差し挟めない。
ならば一番思い入れが出来るのは自分で書くことだとも理解できる。